学校や教育,子どもに関して考えたこと。
教育の目的
そもそも,教育の分野における目的とは何だろうか。教育基本法にはこのように定められている。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
人格の完成を目指す活動が教育なのである。目的がある活動である以上,その目的を達成するために計画を立てたり,修正したり,といった活動が伴う。
人格の完成と言っても,やや抽象的で分かりづらい。もう少し具体的に,教育の目的に関して解像度を上げて考えてみる。
学校レベルで考えてみると,「挨拶ができる子ども」,「主体性のある子ども」「勉学に一生懸命取り組む生徒」のような,目指すべき児童・生徒像が掲げられる。
多くの学校では,これらの目標を達成するための手立てを設定する。例えば,「挨拶をできるようにするために,挨拶運動をしてみよう」とか,「主体性のある子どもを育てるために,自分で決める機会を与えよう」といった手立てが考えられる。
しかし,うまく進むわけではないこともしばしばある。
目的や目標を設定しているため,それらを達成できない・従わない子どもが存在する。達成できない・従わない子どもに対して,教師は指導をする。
大人のエゴを押し付けないで
だが,それらの目的・目標は,子どもたちが考えたものだろうか。大人が一方的に押し付けたものではないだろうか。
挨拶ができる,主体性がある,勉学に一生懸命取り組む,といった生徒像を例としてあげたが,これらは,「好ましく,身につけたい性質」と考えられているのだろうか。
では,その反対の性質として挙げられる,挨拶ができない,主体性がない,勉学に取り組まないという生徒像は,「好ましくなく,改善すべきこと」なのだろうか。
個性を受け入れる。言うは易く行うは難しである。
挨拶ができないという一面は,恥ずかしがり屋という個性が現れただけかもしれない。
主体性がないという一面は,他の人に従う素直さの裏返しかもしれない。
勉学に取り組まないという一面は,他のことに一生懸命とか,ただ勉強に興味が出ないだけかもしれない。
ここで言いたいのは,何でもかんでもそのままにしておけばいいということではない。例えば,挨拶ができないことで,困ることはあるように思うし,個人的には挨拶はできたほうがいいと思う。
ただ,子ども自身が,挨拶ができないことに困り感を抱いて,「挨拶ができるようになりたい」と思っているかどうかと,大人のエゴ(挨拶ができるような子どもになって欲しい)は別物である。
だからといって,全生徒に「あなたは挨拶ができるようになりたいですか」と意思確認をして,「挨拶ができるようになりたい」と答えた生徒のみに対して,挨拶ができるような手立てをするというのは現実的ではない。
ここでは,挨拶を例にしたが,目的のある教育活動を行う以上,個性の無視は色々な場面で付いて回ってくる。
学校行事(例えば修学旅行に参加するか否か),という場面を取り上げてみたい。本人の意志を確認することはできたとする。
仮に,「参加しない」決定をしたとしても,その生徒の尊厳は守れているのだろうか。参加することが当たり前のように感じている多数派の生徒は,「なんであの子は参加しないのだろう」と思う。参加しない生徒も「周りからどう思われているだろう」と不安になってしまう。
「そんなの,集団で生活しているから当たり前だよね,仕方がない」
「本人の問題だから,大人がどうこうできる問題ではない」と言われてしまうかもしれない。
この点に,なんとも言えない葛藤を感じている。現在の学校という場では,子どもの個性を認めずに,大人のエゴや多数派の意見を押し付けている状況がほぼ確実に存在すると思う。
理解って何?
学校に限らず,人々は色々な事情を抱えて生きている。家族,障がい,心身,ジェンダー,国籍,過去のトラウマ…など。それらを全て,他人が受け止めることはできない。
学校は様々な生徒が集まって生活している。教育の分野では,「児童生徒理解」という言葉がある。
だが,「理解」という言葉はハードルが高いように感じている。おかれている状況も違うのに,その人の感じ方,考え方を全て理解できるのだろうか。
「私も似たような経験をしたことがあるから分かるよ」とか,「あなたの気持ち,すごく理解できる」とか,親切心から出てくる言葉のように思えても,素直に受け取れない,受け取ってもらえないことがある。
人によっては,「自分の気持ちなんて,分かるはずない」と逆に心を閉ざしてしまうこともある。
だから,他人の気持ちを理解できたように振る舞うのは怖くてできない。無神経な理解は,土足で心に踏み込むようなものだと思ってしまう。
ブレイディみかこさんの著書,「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本には,「他人の靴を履く」という言葉があり,印象に残っている。
他人の靴を履くという言葉は,「相手の立場になって考えてみる」という意味である。
私にとっての児童生徒理解とは,他人の靴を履くこと,それ以上,それ以下でもないと思う。他人の靴を履かないと,「自分のことを理解してくれない」となってしまうし,靴を履く以上のことをすると,「わからないくせに…」となってしまう。
どの程度が靴を履くレベルなのか,それは人によって違うが,適切な距離にいてあげることが大切だと思う。遠すぎてもだめ,近すぎてもだめ。難しい。
他人の人生を生きてしまう
優しすぎて,他人のことばかりを考えてしまう人がいる。あるいは,そうせざるを得ない状況におかれていた人もいる。
ヤングケアラーも,他人の人生を生きてしまう一人だ。ヤングケアラーとは,本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものことである。
誰かの幸せ,誰かのために,という意識が強すぎると,自分を持てなくなる。自分の感情や好みが分からなくなる。
親切さや幸せを分け与えるのは,自分に余裕があるときでないと,逆に自分がすり減ってしまう。ヤングケアラーは,自分に余裕がないにも関わらず,親切さを搾取されている。
この話は,ヤングケアラーに限ったことではない。
まずは,自分が満たされる。満たされて,余ったら分け与える。少し傲慢に思われるかもしれない。でも,それくらいの感覚でいないと,自分がいなくなってしまう。
不思議なことに,満たされた状態で分け与えた幸せは,あまり減らないような気がする。むしろ,他の人も喜んでくれるので,増えることさえある。
不十分な状態で分け与えた幸せは,残りが少ないように感じてしまうし,他人が喜んでくれたとしても,それをキャッチする余裕もないので,こぼれてしまう。
自分を大切に。
終わりに
目の前のことに追われていると,こうしたことを考える機会がない。少し時間ができたときに,書き留めて,自分の考えを整理していきたいと思う。
もし,この記事を読んだ方がいれば,気軽に感想などを@recording117へ送って欲しい。自分の考えを深めるためにも,他の人の意見を参考にしたい。
